株式会社ホタコン

ホタコンランドを夢見る株式会社ホタコン 保田隼希について

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保田 隼希

はじめに

おれものがたり

ぼくは40代半ばになってしまった。学びが好きだけど怠け者、それがぼく自身が一番知っているぼくの特性だ

ぼくは、人生の中で何度も何度も自分探しをしていた

本を読み、人と出会い、セミナーを受け、所属して、体験して、イベントや事業を構築した

そんな生き方でも沢山の学びや発見があった

そして、ぼくの生きる使命が何かを、もういい加減知りたくなっている

そのために何をするかだ

とことん自分とは何かを探求してみようと思った

その先に、共有できる人たちとの会話が生まれる

そうしたら、ぼくたちは何をするために生きているんだ!っていうビジョンが生まれる気がするのだ

ワカラナイことをちゃんと受け入れようと思った

ぼくたちは何も知らない

そこから始めよう

 


生まれ育ち

Birth

保田隼希は愛知県の知立市で生まれた

会社員の父と公務員の母。二つ下の弟がいる

当時は比較的珍しい鍵っ子だった

 

小学校時代は殆ど父親と話をしていないんじゃないかな

単身赴任で栃木に行った父親に何度か会いにいったのを覚えている

 

母は、夜の七時くらいに帰ってくるまで、ぼくたち兄弟が退屈しないように習い事を沢山させてくれた

そろばん、空手、外国語、習字、水泳、サッカー、、、

ぼくは様々なコミュニティを転々としながら仲間と一緒に楽しい日々を送っていた

 

小学校のぼくは、校庭で走り回るのが大好き

その一方で、学童保育では本を読む時間も好きだった

小学校は裸足で校庭を走ることを推奨している学校だったので

ぼくは一年中、半袖短パン裸足で過ごすというよくわからないチャレンジをしていた

学校ではドッジボールが流行っていた

そして、ぼくは鉄棒や一輪車に夢中になった

陸上競技も水泳も長距離走もそこそこな成績で学校の代表になったりした

 

大人になりたくないくらい楽しかったあの日々

学生時代

中学校に入るとバレーボール部に所属した

高身長を活かしたけど、正直、あまりうまい方じゃなかったと今では思う

 

一年生の夏に一か月間アメリカのアイダホ州でホームステイした

ホストファミリーの両親はとても僕のことを大事にしてくれた

楽しい毎日だったし、異文化に触れることがとても新鮮だった

1つ年下のJardはぼくから見てかなり幼稚に見えた

英語は殆どわからなくて、話せなくてもコミュニケーションはとれるものだと感じていた

 

この一か月は部活動をするぼくにとっては大きなブランクだと感じた

みんな夏休みの間に上手になっているし、連帯感も生まれていた

身長が高いだけで重宝はされたけど

もっとチームにコミット出来たら良かったなって今では思う

それでも、担任の先生の熱意があって、優等生が集まるチームではなかったけど、それなりの成績をおさめていた

 

中学時代の勉強は割と楽しかった

1学年に200人くらいいて、最初の定期テストで30番台だったぼくは、その後のテストで毎回、順位を上げていた

特に何か特別なことをしたわけでもないだろうけれど

勉強をすると結果が出るという現象が面白くて、次のテストでは何点を目指そうということを考え始めていた

多分、ぼくは、90点取るために必要な行動が何かを掴むのが得意だったのだろう

中学2年生の時に、親父に言われた言葉は今でも覚えている

『お前は、岡崎高校に行けるぞ』

その時、始めて高校受験を意識した

ぼくは高校の名前を一つも知らなかった

『岡崎高校っていい学校なの?』

三河地方の成績優秀な人が集まる高校で、親父の母校だと説明された

(この親父が通っていた学校だったら俺に行けない理由はない)

目標が出来たぼくは、足りない学力を埋め合わせるための勉強を始めた

 

その時、仲の良い友だちに言われた言葉も忘れられない

友人『どこの高校を目指してるの?』

ぼく『岡崎高校に行くよ』

友人『え?!無理だよ』

ぼく『何で??』

友人『ぼくの方が成績がいいけど、岡崎高校には入れないよ』

ぼく『へー、そうなんだ』

全く諦める理由にならなかった

必要な偏差値とテストの点数目標が明確にあるのだから、そこに必要な勉強をすればいいのに

 

中学3年生になるとぼくの成績は学年で10番以内を目指せるようになっていた

学校の授業はそこまで好きじゃなかった

授業中に先生の話を聞かずに問題集を解くような生意気な生徒だった

いまでも座学は苦手だ

順調に成績を上げているある日、ぼくは友だちから私塾に誘われた

面白い塾だった

定期テストが終わると、中学校での順位を一位から順番に聞いてくる

『一番とったのは誰だ?、次、2番は?』

こんな調子で、ぼくの通っていた中学校の10番以内の生徒を集めていた

ぼくがこの塾に入ることで10番以内の生徒をコンプリート

(何に付き合わせてるんだ?!)

母親に聞いてみた

学習塾に誘われてるけど行ってもいいかな?

勉強しろ、なんて一度も行ったことない母親だったけど

行きたいならいいよ

と快諾してくれた

 

そして、ぼくの成績は中学校生活で初めて下がった

担任の先生に相談したら、自分のペースで勉強した方がいいよねってなった

 

そして、ぼくはその私塾をやめて

無事に高校受験をクリアした

 

ぼくの人生の中で一番の成功体験は高校入試だったのかもしれない

確信に満ちていて、目的が明確で、何をするべきかがわかっていた

 

そして、高校生活が始まった

中学校の部活動だからバレーボール部に入部するのは当たり前だと思った

実際に入部体験をしたけれど、ぼくはすぐにこのコミュニティが嫌いになった

中学時代に実績がある同級生を贔屓してコートの中にいれる先輩

それ以外の下級生は球拾いか自主練だった

顧問の先生がいたかどうかもわからない

先輩が統率していたのかな?全然覚えていない

そんな環境で、2階にある体育館からグラウンドを見つめ居ていたことはよく覚えている

泥まみれになりながら走るラガーマンがそこにいた

ぼくはここで初めてラグビーというスポーツを知った

 

実は、バレーボール部だった中学校時代の先輩が一人、高校でラグビー部に所属していた

その先輩は合格発表の時にぼくに気づいてくれて、合格した瞬間にラグビー部の先輩方からの胴上げをしてくれた

 

ぼくは、体育館から見下ろしたフィールドに自分の居場所があるのだと確信した

そして、すぐにバレー部の入部を断り、ラグビー部の門戸を叩いた

 

ぼくは本当に体格に恵まれていた

背が高いだけで上級生のチームで一緒にプレイさせてもらえた

ルールもわからないままに試合に出させてもらえた

 

高校生活が始まってから勉強に対する意欲は薄れていた

授業を受けていても、テストの結果を知っても感じること

頑張っても確実に叶わない人たちがいる

はっきりいって、勉強すれば先に行けると判断できる人たちもいた

だけど、確実に勝てない相手がいるとぼくは判断した

 

ラグビー部の仲間の中には、学業を優先しなら部活動でも結果を残す人たちがいた

ぼくは彼らと同じ空間にいることがとても居心地がよかった

尊敬する仲間であり、対等に話せる仲間だった

 

 

 

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